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[灯台への道: 湿原の先、灯台の光景が開けるはず]




落石無線送信所


・・・と言っても、当局がQRVするから「無線送信所」というわけではない(笑。

6:20分、落石岬の入り口に到着、さっそくCQを出してみると、しずおかDW33局よりコールバックがある。RS52/52。 SV2017のスタートだ。長野県の南佐久からはヤマナシFK909局、京都府からはキョウトDA153局・・・、おなじみのとうきょうMS25局もいつもの立川からコールが入ってくる。みなさん朝早くから52~53を振ってくる。昨日の夜41でかろうじてつながった、しずおかDD23局は今朝は56とローカル以上の強さだ。

この二日間コンディションがいまいちだったので幸先の良いスタートだ。二日間でEsQSOはわずかに7。コンディションがいまいちに加え、全国的に雨模様だったようなので、運用局が少なかったのが大きな要因だ。結果的に全然リスクヘッジになっていなかった(笑。さすがにSVは運用局数と運用地数はべらぼうに増えるので、交信確率は群をぬいて上がるのである。ただ、8エリアは、早朝か夜というイメージがあるので、コンディションはすぐに落ちる可能性が高い。落ちないうちに、できるだけ交信しておかなければならない。本来の目的地である岬の灯台へと向かわねばならないからだ。ただ、出かけるのは霧が晴れるであろう9時以降の時間を狙っている。お楽しみは後に取っておき、それまではSR-01をフル回転だ。

朝方の霧は体では感じないのだが、やはり運用を始めるとアンテナはすぐにびしょぬれだ。リグは、「ゴンベイハンドメイドショップ」さん特製のリグカバーとタオルがあるので問題はないが、アンテナカバーを買い忘れたのは痛かった。ローディングコイルからはもうすでに水が滴り落ちているが、そんなことは気にしていられない(笑。

  ゲート前にて  


今日の最初の運用ポイントは、落石岬への入り口にあたる、車止めゲートの前だ。ここから、岬へは歩いて25分ほどかかる。この車止めの200~300m先には、かつては「落石無線送信所」があり、その先に岬や灯台があるのである。落石無線送信所は、1959年(昭和34年)に廃止され、コンクリート製の局舎のみが現在は遺構として残されている。 当局が落石岬に来たかったのは、無線とは全く関係のない理由からだが、落石岬は、むしろ落石無線送信所があった場所として有名なのである。無線界で「オッチシをしらねば、もぐりだ」と言われたほどだと言う。当局もその存在は知っていたが、詳しい内容を知ったのは実際に行く前になってからなので、さしずめ「もぐり」ということかもしれない(笑。

送信所は、1908年(明治41年)に落石無線電信局として開設(*注、かつては90mhの鉄塔を主柱とするアンテナ群が立てられ、七つの海の商船、客船等を相手に電信業務を行っていた。JOCのコールサインは世界中に知られ、屈指の海岸局と称されていたらしい。特に太平洋航路を行き来する商船、客船等への電文送信業務で活躍した。出だしの頃は使用周波数は中波、まだ火花式の送信機だ。無論、その頃は占有周波数帯幅など云々以前の話である。1912年(明治45年)、沈没前にSOSを発信したタイタニック号は無線機を搭載した草創期の客船として特に有名だが、その頃はみな火花式だった。

送信所は、1931年(昭和6年)に、リンドバーグが北太平洋横断飛行の一環として、根室に飛来した際にも活躍したらしい。リンドバーグ機を無線で誘導し、着陸(水)の支援を行ったのである。電信の受け手は、タンデム型後部座席に座るリンドバーグ夫人だったそうである。

ちなみに、「送信所」というのは、送信と受信は別々に行われており、受信所は別に存在したからである。一方、送信所から発信される電文は長い時間洋上にいる船にとっては、唯一の外界からの情報源であったから、送信所は非常に重要な存在だった。落石送信所ではないが、1912年、関東大震災発生の第一報を世界に発信したのも、磐城電信局の原町送信所(現福島県南相馬市)だ。米村嘉一郎が発信した短いニュースが世界を駆け巡ったことは世界的に有名な話である。それは、テレビの衛星中継というものが世の中に出現した際、試験中継が開始された途端に飛び込んできた映像が、ケネディ大統領の暗殺のニュースだったのと同じぐらい衝撃的なものだったはずだ。無線通信の役割のもっとも偉大なところだ。

*注)落石送信所はネット上にはさまざまな名称で登場するが、どの期間と役割を捉えて言うかで、呼び方は異なる。大まかに戦前までは落石無線電信局、戦後から落石無線電報局の模様。電信局/電報局というのは主に組織面から捉えた言葉なので、必ずしも送信所や受信所は同じ場所にある必然性はない。落石の場合「局」は根室で、「送信所」として機能した期間が長い。当局の理解では、落石としての最後は、「落石無線送信所」で、「落石無線電報局」(根室)の送信所である。送信所が転居して廃止されたのが1959年、落石無線電報局が廃局になったのは1966年である。

 落石無線送信所局舎跡  


落石岬は、今でも「人里はなれた感」満載である。湿原として保護されている中心部はもとより、車止めの付近でさえほとんど建物はない。100年前の当時は想像できないくらいの僻地だったに違いない。落石集落から岬方面に上がるには、坂があるのだが、ここは「30円坂」などと呼ばれたらしい。大正末期から僻地手当てが30円支給されたことにちなむとのことだ。しかし、ここにはこの重要な業務のため、通信士の家族も含め、50~60人もの人々が居住していたのである。長屋状の居住棟は5棟あり、すでに昭和初期、局舎の前にはテニスコートまであったというのは驚きである。今のほうがむしろ僻地感は強いかもしれない。

落石無線送信所については、この送信所のOBであるJA8FO氏が、歴史的な史料をスキャンされてウェブサイトにUPされており、昔の写真等も非常に豊富で、大変興味深い。リンドバーグ夫妻が根室公会堂に来所されたときの写真等も載っている。史料なので、当然記載内容も正確だ。是非一読されることをお勧めする。送信所に関する当局の知識は、ほとんどこの史料からの受け売りである。

  ゲート前にて  


電波伝播最適地

上記の史料の中には、「落石は電波の伝わりの最適地であり、満足な測定器もない時代に、この地を選んだのは神業である」、というような思い出話もある。戦後になって民間放送が開始された時、札幌では夜間しか聞こえなかったラヂオ東京が、落石では日中でもきれいに聞こえたそうである。

そのご威光のおかげか、コンディションは8時、9時を回っても落ちきることはない。これまでの2日間とはえらい違いだ(笑。1、2、エリアを中心に、落ちることなく入感してくる。0エリアからは、ナガノK2局のCQも強力だ。

そうはいっても本来の目的地である落石岬灯台へ向かわねばならない。灯台へはもちろん、87R持参で向かう。湿原の木道の先、森が切れたとき、灯台の光景がひろがるはずだ。


湿原




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