『ミカコからのメールは二行だけで、あとはノイズだけだった。
でも、これだけでも奇跡みたいなものだと思う。』 (ノボル)
新海誠監督作品『ほしのこえ』(2002年)は、西暦2046年から始まる。
ミカコとノボルは同じ中学に通う仲の良い3年生。ノボルは、卒業すれば二人とも同じ高校に進学して学校生活を共にできると信じていた。しかし、ミカコは国連宇宙軍の選抜メンバーに選ばれ、機動戦士のパイロットになることをノボルになかなか話せないでいた。国連宇宙軍のミッションは、タルシス人(タルシアン)の行方を追い、その調査を行うことだ。タルシス人は、一度は火星で文明を築いていたが、火星を離れていった。地球の調査隊は、過去、火星でタルシス人に全滅させられたという苦い歴史もある。再びタルシス人に遭遇すれば、戦闘になることは必至だ。
ミカコは宇宙船団の一員として、火星で機動戦士のパイロットとしての訓練を積み、木星を経由して、冥王星へとタルシアンを追っていく。ミカコがノボルに打つ携帯メールは、火星から、木星、冥王星へと移動するにしたがって地球に届くまでの時間差がだんだんと大きくなってくる。
そして、その時間差は太陽系外に出たとき、図らずも1年と16日にもなってしまう。冥王星でのタルシアンとの戦闘で、ハイパードライブでワープして緊急退避する必要があったのだ。時間、つまり低速な光の速さがいよいよミカコとノボルの意思疎通を阻んでいく。宇宙船は長距離ワープでさらにシリウスに到達する。そこではタルシアンとの激しい戦闘が待っていた。機動戦士パイロットとして果敢にタルシアンと戦うミカコ。
最後の戦闘の前に、コックピットの中からミカコは一本のメールをノボルあてに打つ。そこにはある思いが託されていた。メールがノボルに届くのは8年と224日後だ。
『24歳になったノボル君、こんにちは!
私は、15歳のミカコだよ。
・・・・
・・・・』
最初の二行の続きにはなんと書かれてあったのか?それは観客のみが知っている。
(
『 』内は、Makoto Shinkai/MANGAZOO「ほしのこえ」より引用。以下同様。)
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左:学校から二人乗りで
一緒に帰るミカコとノボル
右:機動戦士パイロットとしての
ミカコ |
出典:Makoto Shinkai/MANGAZOO『ほしのこえ』
(『ほしのこえ』より引用) |
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一秒間に30万キロ「しか」進まない、光の速さは、宇宙空間ではあまりに遅すぎるスピードだ。宇宙船はワープしてシリウスまでやってきたものの、意思のない電波自体は、ワープすることはできないので、きっちりと光の速さで地球へ向かっていく。ノボルは半ば絶望の淵に立たされる:
『ぼくたちは、中学のころから、ずっとたぶん、お互いだけを見ていた。
でも光の速さで8年かかる距離なんて、永遠ていうのと何も変わらない。』
電波がきっちりと光の速さで飛んでいくのは、米映画『インターステラー』(2014年)でも同じだ。こちらはテキストメッセージではなく、ビデオメッセージだが、絶滅の危機に瀕している地球を救うべく、新たな移住先の星の探索に旅立った宇宙船には、10年、20年前のメッセージが届く。宇宙飛行士がメッセージを受けとる時には、すでに地球上の相手は10歳、20歳年をとっているわけで、はたして一般論に立ち返れば、これでコミュニケーションが本当に成り立っていると言えるのかどうか極めて疑わしい。それでも人々は家族や社会との「つながり」がなければ、生きていけないということだろうか。
地球を出発する前、主人公が自宅で使っていたピックアップトラックにはCB無線機も積まれている。「39」チャンネルが表示されていたりもする、真正のCB機だ。宇宙の通信とは異なり、こちらはいかにもアメリカらしい、普段使いの、自宅を守るおじいちゃん(自分の娘から見て)との重要なコミュニケーションツールだ。最後の最後まで、アナログでつながり続けるために使われるCB機という意味合いが強いが、そういう意味では、
2007年の運用記で記した『ダイハード4.0』(2007年)と同じだ。
秒速30万キロという超低速な速さが本当に科学的に速さの限界なのか、当局のようなシロウトにとっては大いに疑問なところだが、相対性理論の中で生きている21世紀の現在、この時間と空間を超越した世界をどのように紡ぎだすのかが、ファンタジー小説やSF映画の大きな関心事だ。理論的にはタイムマシンも不可能ではないともいわれる現在だが、時間をいじると必ず問題になる因果律の問題はまだ解かれているわけではない。今のところ、むしろそこに我々の興味の本質がある。米映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』シリーズ(1985年~1990年)がもっとも代表的なところだろうか。
米映画『オーロラの彼方へ』(2000年)では、子供のころの自分の父親とアマチュア無線機で交信する、主人公の姿が描かれる。子供のころ消防士である父親を火災現場で失ったはずの主人公だが、父親が使っていた昔懐かしいリグを稼働させてみると、つながったのはなんと数十年前の自分の父親だ。電波は時空を超えたのか?火災現場での事故の事を伝え、父親の命を救うことに成功する。歴史を変えてしまったことで、さらに物語は、母親を巻き込んだ殺人事件のサスペンス調にまで発展するが・・・。
交信に使われる無線機は、当然ながら昔の無線機で、ヒースキットのリグだ。映像上では、リグも大写しにされHEATHKITの文字もよく見える。ただ、うろ覚えだが、送信機と受信機がペアで使われるべきところ、なぜか受信機が二台並んでいたような・・・(笑。
思いは時間を超えるのか?
『ほしのこえ』は、意地悪な見方をすれば、いわゆる「上書き保存」ができないノボルの、人との分断と別離に関する過去の美しい感傷譚と見ることができるかもしれないが、むしろそこにこそ新海作品の基調を成す真髄があるといえるだろう。われわれの誰もが、多かれ少なかれそうした部分を持っているからこそ、多くの人の共感を呼ぶのである。出会い、別離、結合といった概念、そこに一貫した哲学のようなものが感じられるところが人気を得ている秘密であるとも思われる。
新海作品でよく共通して表現されるのは、踏切、高くそびえたつ階段状の歩道、左手の薬指の指輪、などなど・・・。特に、遮断機が下りた踏切は、人と人との結合を断つ、不如意な障害であり、そしてそこを切り裂くように通過するものは血の通った人を乗せた電車や列車ではなく、ほとんどの場合が貨物列車だ。しかも、『雲のむこう、約束の場所』(2004年)でもそうであるように、通過するのは単なる物質的な貨物である以上に、きわめて鋼的で冷徹な戦車や軍需物資であったりする。が、一方で下りた遮断機の同じ側にいることは、人とのつながりを意味するが、同時にそれは踏切が閉まっている間だけの刹那的な関係に過ぎない。
高い階段状の歩道は、基本的にはこれから歩んでいく道行に立ちはだかる障害ともいえる。『君の名は。』(2016年)でも、カギとなる場所の一つである。しかし、ストーリーのエンドとして少し希望を持たせてくれる『君の名は。』では最後に、人を阻むその長い階段を、以前好きなもの同士であったことを忘れてしまった二人の再会の場所として選んでいるところは印象的である。
今回つながりの障害になるものは、光の速さ、すなわち電波の「遅さ」だ。幸い、今のところ我々一般の無線家が体感するのは、せいぜい
LDE現象ぐらいで、地球上にいる限りにおいては、ほとんど電波の速さは問題になることはない。しかし、昨年大成功を収めた小惑星探査機「はやぶさ2」のプロジェクトでは、探査地であるリュウグウまで電波が届くのに19分程度(第一回ダッチダウン時)、往復では38分かかるわけで、探査機の一挙手一投足すべてに指示をだすわけにはいかず、すでに光の速さがネックになっている。探査機に地球からの指示にたよらない、信頼性のある自律運転技術が要求された所以でもある。
いずれにせよ、光の速さを超えたコミュニケーション手段が、すぐに必須になるのは間違いなさそうだ。しかし、人の思いや感情は、テレパシーのように電磁気学を超えて瞬時に伝えあうことができるのかもしれない。
『ねえ、ノボル君。私たちは遠く遠く、すごくすごーく遠く離れているけど、』 (ミカコ)
『でも思いが、時間や距離を超えることだってあるかもしれない。』 (ノボル)
『ノボル君はそういう風に思ったことはない?』 (ミカコ)
『もし、一瞬でもそういうことがあるなら、僕は何を思うだろう。』 (ノボル)
『ミカコは何を思うだろう。』 (ノボル)
('21/04/04)
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