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赤いTシャツの少年

 

昨日、野甫島の売店でブルーシールアイスクリームを買って、ベンチへ向かおうとした時、通りがかった島の子供たちがヨソ者の当局に、「こんにちはー」と、元気よく声をかけてくれた。それは、まるで、「ようこそ」と言っているようにすら聞こえる。これは野甫島に限らず、伊平屋島でも同じだ。よほど教育が行き届いているのかもしれない。当局のような極めて怪しい、どこの馬の骨ともわからないようなオッサンにも、おもてなしの心を持っているのである。

日曜日は昼近くになっても、大気の不安定さは変わらない。陽がさしたかと思うと土砂降りもしくはシャワーの繰り返しで、なおかつ常に強い風が吹いているという状態だ。相変わらず雨のたびにリグを広げたり、畳んだりの繰り返しである。しかしここ、前泊港の岸壁は電波の飛び受けもよく、人工ノイズも皆無なので、島の景色を堪能しようということでないならば、最も手軽でかつ良好な運用ポイントなのである。問題は強い風をもろに受けるということで、風切り音で、相当ボリュームを上げても受信局が聞きづらいということである。

それはさておき、QSOの最中にいつのまにやら、帽子(キャップ)を飛ばされたらしく、それに気づいて岸壁から海をのぞき込んでみると、見事にプカプカと浮いている(笑。どうやって回収するか?風向きから考えると数十分後には、100m程先にある港の岸壁と、漁港の防波堤が織りなす90°のコンクリートの壁の隅っこに流れ着くだろうというのが当局の読みだ。そこにたどり着けば何とかピックアップできるかもしれない。ル・コックの、何の変哲もない、安物のゴルフキャップだが、これは何とか回収して帰りたい。放棄するのは簡単だが、その場にこのまま見捨てていくことは実に可哀想な気がしたからである。

西條八十の詩『ぼくの帽子』の一節のように、そんな気持ちは誰しも抱いたことはあるのではないだろうか。『ぼくの帽子』は、森村誠一さんの『人間の証明』で取り上げられ、カドカワで映画化された際に、CMで一躍脚光を浴びた。そう、碓氷から霧積へ行く途中で、谷底に落としてしまった、あの麦わら帽子である。

案の定、昼飯を取ってから、その「90°の吹き溜まり」に直行してみると、ちゃんと帽子は流れ着いてはいる。そこまでは想定通りだが、帽子をピックアップするには海に入って岸壁を這い上がるか、紐の先端に木切れか何かを括り付けて引っ掛けるぐらいしかない。もともと海パンで運用しているので、海に入るのはたやすいが、素人目に見てもどうみても足がかかりの全くない垂直の岸壁をよじ登るのは相当困難に思われた。海面まで2mくらいある。こんなところで素人のサラリーマンが事件を起こしては地元の方に申し訳ない。

とりあえずロープの端切れでも拾いに回るかと、動き出そうとすると、近くに一台の軽自動車がやってくる。すると降りてきた一人の少年が釣竿をもってつかつかと当局のすぐ真横に陣取り始めるではないか。海に竿を投げ出す、その手さばきは見事だ。映画の「釣りバカ日誌シリーズ」はほぼすべて観ているが、釣りのことは全く分からない当局にさえ、そのスキルのうまさが伝わってくる。投げた竿はすぐにしなりはじめ、比較的大きな魚をヒットしているようだ。当局は帽子のことはそっちのけで、その見事な手さばきに見入っていた。


赤いTシャツを着たその少年は中学1~2年生くらいだろうか。小学生の弟と二人づれである。父親は少し離れた車から二人を見守っているようだ。じっと見つめる当局を横目に、その少年は釣りを続ける。

当局が切り出したのは5分以上経ってからだ。
「あの~、帽子が流されちゃったんだけど、あの帽子、なんかとる方法ないかな~?」
少年は一瞬「お安い御用だ」という表情を浮かべると、即座に別の釣竿を取りに戻りに車に向かって動き始めた。それでも一応どうやってとろうか?と、弟に声をかけてみる。弟の答えは極めて冷静だ。
「タモでとったら」(笑。
確かに、ぎりぎり、長めの?タモなら届きそうなところに、折よく帽子は漂流位置を変えつつあった。タモは車にあるようだ。
少年は何事もなかったように、帽子を引き揚げ、引き渡してくれる。そして真剣な表情で再び釣りに専念しだした。何事もなかったように・・・。

西條八十は、帽子の下で鳴くきりぎりすや谷に積もる雪等の時間の概念という縦軸で、持ち主を失って谷底に静かに眠る麦わら帽子に思いを巡らせてみる。幸いなことに、当局の帽子の下には、魚がこれ以上泳ぎ回ることはなかった。すべてこの優しい少年のおかげである。




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(QSO局は最終ページにまとめて掲載しています。)


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